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龍馬暗殺の黒幕は… [歴史]

 師走に入り、2008年も残すところあとわずか。今年もまた目的を果たせずに終わってしまいそうだ。龍馬暗殺のことである。
     

 坂本龍馬が中岡慎太郎とともに京都の近江屋で刺客に襲われ、殺されたのは、1867年11月15日(死亡は16日)のことだ。これは旧暦で、新暦なら12月10日になる。毎年、寒さが厳しくなるこの時期になると、日ごろから龍馬暗殺について詳しく調べようと思いつつ、全くできていないのを悔やむのが決まりごとになっている。

 歴史ブログをやっていてこういうのも何だが、基本的に歴史的事件の真相解明は歴史家にまかせるべきだと思っている。龍馬暗殺もそうだ。一次的なものから関連情報を丹念に拾い集め、事実がどうかひとつひとつ裏づけを取り、当時の情勢と照らし合わせながら推測し、犯人の的を絞っていくー。暗殺の決定的証拠が残されてない以上、それが解明への近道であり、このような作業は知識や情報収集力、時間の余裕に欠ける一般の歴史ファンには荷が重い。

 だが、龍馬ファンであればあるほど、暗殺の謎を解き明かしたいと思うのもよく分かる。そう言う自分からしてそうだ。ファンの多さを示すように、ネット上には関連情報があふれている。中にはすごくよく調べていらっしゃる方もいて勉強になる。そもそも歴史の謎についてあれこれ思いを巡らすのは、歴史ファンが最も楽しみとすることだ。

 ただ、そうしたサイトを見ていてひとつ気になることがある。(私には)荒唐無稽としか思えない薩摩藩黒幕説がよく取り上げられるのは、一般の興味をひきつけやすい陰謀説だから分かるとしても、肝心な人物が登場しないケースが多すぎるように思われるのだ。

ブログ・近江屋1.JPG

                   (龍馬が斬られた近江屋) 

 この暗殺事件の実行犯は、京都見廻組であると言ってほぼさしつかえないと思う。新撰組説もあるが、ちょっと無理がある。彼らがよく通ったとされる料亭「瓢亭」の下駄が残されていたことや、幹部の原田左之助のものと思しき刀が遺棄されていたこと、事件直後に現場へ駆けつけた谷干城の推測がその理由として挙げられているが、谷はいわれているように新撰組説を頑なに主張していたわけではなく、可能性が強いといっていただけだ。瓢亭には見廻組の連中も通っていたようだから有力な証拠にはならないし、原田の刀についても新撰組から脱退した御陵衛士がそう推測しただけで、断定できるものではない。

 それからすれば、見廻組説の方がはるかに説得力がある。組幹部の今井信郎による1870年の供述(自分も加わったとするもの、後年「近畿評論」に載った証言もある)があるし、渡辺一郎が大正時代の死去直前に残した証言(剣技を買われて暗殺に加わり、自分が殺したとするもの)もある。彼らの証言内容に微妙な食い違いはあるにせよ、大筋では矛盾していないし、内容が具体的だ。
                 

 問題は黒幕で、ここでは主に3つのケースが考えられる。1つは見廻組組頭の佐々木只三郎が独自の判断で暗殺したとする考え方、2つ目は幕府上層部による命令説、そして3つ目が幕府以外からの指示とする説だ。このうち独自判断説はないとはいいきれないが、治安組織の指揮・命令系統や、命令に忠実だったという佐々木の性格から考えて、ほぼないとみていいだろう。

 幕府上層部による命令説は、最も妥当に見えるものの、私はこれもないと思っている。この説では、見廻組を監督する立場にあった(とされる)目付の榎本対馬守道章が疑われている(榎本は戦死した佐々木と違い、戊辰戦争後も生き、1893年に亡くなっている。残念ながら、龍馬暗殺に関する彼の証言があるのか私には分からない。

 彼を命令者とする説の有力な材料としては、勝海舟の日記が挙げられる。当時、榎本の上司である大目付は松平勘太郎だった。勝海舟は1870年4月15日付の日記でこう書き留めている。「松平が(自分に)事件について言った。『(捕まった今井を(新政府が)問い詰めたところ、佐々木をリーダーとして今井らが加わり、暗殺が行われたという。命令者がいたようだが、それが榎本かどうかは分からない』と」。これはよくいわれているように、海舟が黒幕を榎本と推測したのではない。しかも、榎本の上司だった松平が事情を呑み込めず、不思議がっているのである。

 私の知る限り、目付の職にあったのは榎本だけではないし、当時は龍馬と親交のあった永井尚志が京都に滞在していた。もし榎本が龍馬を殺そうとすれば、松平勘太郎や永井の耳に入るのが自然だし、大政奉還にかかわった永井は(もし竜馬が大政奉還の発案者と知らなくても)止めただろう。黒幕を榎本と判断するには材料が乏しすぎる。

 一方、幕府以外を黒幕とする説の有力な材料には、会津藩の公用人(京都における外交のトップ)だった手代木直右衛門の証言がある。彼は佐々木の実兄で、1904年に79歳で亡くなっているが、その直前に暗殺の経緯を子孫に語り残したとされる。以下、手代木家の私家版「手代木直右衛門伝」(1923年発行)による。

 …手代木翁死に先だつこと数日、人に語りて曰く坂本を殺したるは実弟只三郎なり、当時坂本は薩長の連合を謀り、又土佐の藩論を覆して討幕に一致せしめたるを以て、深く幕府の嫌忌を買ひたり、此時只三郎見廻組頭として在京せしが、某諸侯の命を受け、壮士二人を率い、蛸薬師なる坂本の隠家を襲ひ之を斬殺したりと…

 龍馬が暗殺された当時、政局はきわめて流動的な状況にあった。徳川慶喜が大政奉還で政権返上を決めたとはいえ、彼はまだ朝敵になっておらず、引き続き政権運営の主役を担う可能性が高かった。敵が健在である以上、倒幕を目論む薩長としては、仲間の龍馬を殺している場合ではなかった。内ゲバというのは、あくまで権力をつかんでから起こるものだ。

 一方、会津藩には殺すに足る理由があった。彼らの大半は大政奉還に反対であり、徳川幕府を存続させるため薩長との一戦も辞さない覚悟でいた。彼らにとって「過激派」である龍馬を殺すことは、敵対勢力を削ぐ意味でプラスだった。となると、暗殺を指示した可能性が高いのは、会津藩主で京都守護職にあった松平容保ということになる。

 しかし、事実はそう単純でもないらしい。ほかにも黒幕候補がいるのだ。ここで、「なぜ肝心の人物があまり登場しないのか」という、冒頭の疑問に戻る。

 「手代木直右衛門伝」の続きを見てみたい。

 …蓋し某諸侯とは所司代桑名侯を指したるなり、桑名候は会津候の実弟なりしを以て、手代木氏は之が累を及ぼすを憚り、終生此事を口にせざりしならん…

 桑名候というのは、容保の弟で伊勢桑名藩主だった松平定敬のことだ。彼は当時、京都所司代を務めており、幕権を維持することにかけては兄に勝るとも劣らない強硬派だった。京都所司代は京都の治安維持を主な任務とし、幕末当時は京都守護職(つまり容保)の管轄下に置かれていた。見廻組もまた、守護職の管轄下にあった。定敬が黒幕なら、佐々木に「依頼」したとしてもおかしくない。(見廻組が所司代の直接の指揮下にあったとしているサイトもある。詳しく調べ切れていないが、もしそうであれば「依頼」ではなく「命令」ということになる。どちらにせよ、以上の話に無理は生じない)

 暗殺は政治的なものではなく、たんに寺田屋事件で取り逃がした龍馬が「おたずね者」だったから行われたとする意見もある。だが、私は政治的な理由から行われたと思っている。大政奉還直後という微妙な時期に殺そうとしたこと自体が政治的行動といえるし、大人数による「捕り物」と異なり、暗殺という隠密の手段をとったことがそれを示している。近江屋が土佐藩邸のそばにあったから少人数で隠れて行ったとすれば、なおさら政治的な事件になり得ることを犯人たちは分かっていたことになる。それに、どちらが真の動機であるにせよ、定敬黒幕説を否定する理由にはならない。

 定敬は手代木よりも後の1908年に亡くなっているが、手代木の証言が公にされたのは、それより後だったはずである。容保は1893年に死去している。

 さらにいえば、今井の供述には暗殺の実行犯として、渡辺吉太郎という人物の名が出てくる。彼は桑名藩の人だという(渡辺一郎とは別人の可能性が高い)。

 定敬ではなく、容保が黒幕だった可能性もあるが、少なくとも暗殺が会津藩と桑名藩、見廻組の協力によるもので、この兄弟が深くかかわっている可能性は高いといえるだろう。今年も調べきれずに終わりそうだと書いたのも、渡辺を含め、当時の容保と定敬について、もう少し詳しく調べる余地があるのではないかと思っているからだ。たとえ決定的な証拠が出てこなくとも、事件の輪郭が少しは明確になるのではないだろうか。

ブログ・竜馬.JPG
                        

 坂本龍馬という人は、「竜馬がゆく」の影響で、これだけ国民的人気を博していながら、いまなお業績について評価が分かれている、不思議な人物だ。一部には薩長連合をはじめ、彼の独力による業績はほとんどないとして、かなり低く見積もる研究者もいる。これはまた別のテーマになるので、今回は触れない。

 ただ言いたいのは、彼はやはり一介の素浪人ではなかった、ということだ。幕末の出来事を改めて振り返ってみると、幕府側が暗殺という手段で人を殺した例はほとんどない。新撰組にしても、近藤勇らが局長の芹沢鴨を殺した事件と、脱退した伊東甲子太郎らを殺した油小路事件ぐらいで、いずれも内ゲバといえるものだ。

 権力側による暗殺(あるいは白色テロというべきか)は、権力の所有権が脅かされたり、表立って警察を動かせないといった、相応の理由がないと行われにくい。そして対象は、権力を脅かすだけの力量を持っている人物であることが多い。龍馬の暗殺は、幕府の崩壊が迫った段階で、しかも彼が重要人物だったから行われたのだ。西郷隆盛や桂小五郎といった他の大物は、京にいないか、手厚い警護に守られていたから殺されることがなかったといえる。そう考えると、藩邸のすぐそばにいたという油断があったとしても、大切な時期に重要な人物を2人も失った土佐藩の失態ぶりにあきれてしまう。

 龍馬が暗殺された半月後、王政復古のクー・デターで薩長は主導権を握り、さらに半月あまり後には鳥羽伏見の戦いに勝利し、政権獲得への流れを作った。容保・定敬の兄弟は、戦いを不利とみた慶喜に半ば無理やり東京へ連れて行かれ、中途半端な状態で戊辰戦争を戦うことになる。

 鳥羽伏見の戦いまでの1カ月半を乗り切れば、龍馬は若くして死ぬことはなかった。殺す側からいえば今しかない、今だからこそというタイミングで殺されたのだと思うと、何とも惜しい気がしてならない。


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コメント 2

森田隆二

ブログ、楽しく拝見させて頂きました。
ありがとうございます。
一つ、教えて頂きたいことがありメール致します。
【龍馬暗殺の黒幕は…】の記事に旧近江屋の写真がありました。
模型などから考えると、間違い無く近江屋であろうと判断されます。
ところで、この写真は、何処で入手されましたのでしょうか?
宜しければ、是非、教えて下さい。
当方、個人の趣味で龍馬及び、幕末を学んでいるものです。
morita.r0316@mail.com

くだらない執着ですが、写真の現物を是非、見てみたいと思っております。

宜しくお願い致します。 
by 森田隆二 (2016-11-17 02:59) 

森田隆二

今、コメント致しました森田です。
ああ、そうか! コメントは表示されるんですね。
ご返信用にと自分のメールアドレスを書いてしまいました。
まあ、いくらなんでも、さらしっぱなしという訳にもいきません。
ご確認されましたら、お手数ですが削除頂けますと嬉しいです。
宜しくお願い致します。
by 森田隆二 (2016-11-17 03:02) 

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