可愛いやね! [お気に入り]
胸がドキドキして、息をすることすらままなりません。
もうすぐ四十路だというのに、どうやら年甲斐もなく恋の病にかかってしまったようです。
頭がボーっとして、微熱がおさまらなくて、涙が止まらなくて、鼻水がひどくて…
花粉症だわ(笑
でもね。
恋煩いとはいかないまでも、ある女性に夢中なんです。念のため言っておくと山の神じゃありませんよ(笑
すっかり衰えた外見とは裏腹に、ダフニスを彷彿とさせる純情で清らかな心の持ち主であるワタクシは、四月のオフィス変更を前にあれこれ準備があるにもかかわらず、まったく仕事が手につかんのであります。
「心濁りきっとるやん!」とか、「仕事が手に付かないのはいつもじゃん!」という同僚および知人・友人のクレームは一切、お受け致しかねますm(__)m

話を進めましょう。最近我が家に届いたラブレターです。山の神に三行半を突きつけられたわけじゃありませんのであしからず。
いやぁ、たった数日の辛抱なのに何年も待たされている気分でしたよ。まさしく彦星の心境ですわ(え
さっそく封を切ります。

ラブレターじゃなくてマルベル堂のブロマイドでした(*^_^*)
それにしても。
(-ω-。`)ホ゜ッ
…失礼。
この女性こそ、いま恋焦がれている人なのです。
誰だか分かるかな?ふっ、わっからねえだろうな〜
もし分かるとしたらあなたはかなりのオッサン…いや、かなり女性を見る目があり、この女性の存在をずっと心にとどめてきたのでしょう。当方の言葉だと説得力ゼロかもしれませんが。
そうねえ、ヒントは「バレーボール」
分からない?ちょっと広すぎたか。
じゃあ、「サインはV」。これでお分かりでしょう。
そう、岡田可愛さんです。と言っても私より若い人は知らないか。むかし活躍した女優さんで、今はアパレルブランドを運営されている方です。
岡田さんのことは子供の頃から知ってはいました。でも物心がついた頃には女優業を半ば引退されていて、たまにバラエティー番組で見かけるくらい。失礼ながら、「ちょっとケバいおばさん」くらいにしか思っていませんでした。それ以前の映像も「サインはV」の場面を見かけるくらいで、主役を務めた岡田さんにフォーカスを絞ったものではなく、ドラマのスポ根ぶりや奇抜さを懐かしむ場合がほとんど。虜になるほどではありませんでした。それがなぜ今になって夢中なのかというと、たまたまYOUTUBEで他の作品を見る機会に恵まれたのです。
「サインはV」を除く代表作だと、夏木陽介さんらと共演した「青春シリーズ」や、NHKで放送されて好評を博し、岡田さんは先生役を演じた「謎の転校生」あたり。吉永小百合さん主演の映画「キューポラのある街」にも出演されているようです。
当方のイチ押しは、1971年に日本テレビ系列で放送されたホームコメディーの「おひかえあそばせ」。プロ野球が中止になった時に放送される、いわゆる「雨傘番組」だったため、全13回と話の数は少なめで、さして話題になった作品でもありません。私もずっとこのドラマの存在を知らず、もともとは石立鉄男さんが大好きで、過去の作品を洗いざらいチェックしていたことから知りました。
石立ドラマといえば、岡崎友紀さんと共演し、ラブコメの草分けともいえる「おくさまは18歳」(70年)や、酒井和歌子さんがヒロイン役の「気まぐれ天使」(76年)あたりを思い浮かべる方が多いのでは。「おひかえあそばせ」の焼き直しで、岡田さんに代わって大原麗子さんが相手役を務めた「雑居時代」も有名ですね。いずれも30年以上前に制作されたとは思えないほどの傑作ぞろいで、相手役も魅力的な方ばかりです。
その中でも、私は「おひかえあそばせ」を選びます。このドラマ、松木ひろしさんの脚本もさることながら、岡田さんを含め、石立さんや宮本信子さん、冨士真奈美さんといった出演者の演技がことごとく素晴らしい!はっきり言ってリメイク版の「雑居時代」よりホームコメディーとしての質は上だと思います。
六人姉妹の四女でヒロイン役を務める岡田さんのかわいいこと!ツンデレの気があり、勝ち気な一方で、心優しく、石立さん演じる若手カメラマンと喧嘩しながらも惹かれていくという、難しい役所を見事に演じきっています。岡田さんは当時23歳。10代の清純な岡田さんも可憐で素敵ですが、このドラマの岡田さんはそれをしのぐほどチャーミング。
ついでにいえば、見た目だけでなく、その声も声フェチの当方にはツボです。発声がしっかりしていて、聞き取りやすくて、純粋に役者としていい声してると思います。
岡田さんは自伝的なエッセイを書かれていますが、残念ながら撮影期間が短いこともあったのか、この作品に言及していないのが残念。
演技の素晴らしさは当方の分かりにくい説明より、自身でご覧になった方が方がいいかと。容量制限があるのでURLを貼っておきます(http://youtu.be/c8DB8tEoN3I)。この動画が演技のうまさを何より証明してくれています。
どうです?特に最後のシーン。うっふ~ん♪ 家族のいる方はにんまりしたところを見つからないよう注意しましょう(笑
この作品はかつてDVD化されたものの、現在は入手困難で、中古の値段も高いので買うのを我慢していました。ところが、五月から再販されるとのことの耳寄りなニュースが!これで五月病にならずに済むかな。

それにしても、これほど出演作品や写真によって見た目の印象や表情が違う女優さんは珍しい。単にメークで違うのではなく、やはり演技力や表情の豊かさによる部分が大きいのではないでしょうか。
岡田さんは歌も出していて、中でもいずみたくさん作曲、岩谷時子さん作詞の「涙こらえて」は名曲です。こちらもYOUTUBEでアップされているのでぜひ聴いてみてください(http://youtu.be/zg1eRK-TpJQ)。
シンプルながらもメロディーがしっかりしていて、口ずさみやすくて、「上を向いて歩こう」にも引けを取らないレベル。意図的なんでしょうが、「空に~ひ~か~る~♪」という部分の歌い方がかわいすぎ(*^-^)ニコ.
この曲は幸い、「これが青春だ」(キングレコード)というCDに収録されています。手に入れたい方は検索してみてください。
メキシコへ渡ったサムライ [歴史]
経済小説の開拓者として知られる城山三郎氏に、「望郷のとき~侍・イン・メキシコ」という、ちょっと毛色の変わった作品がある。前半は小説風、後半はルポルタージュ風の二部構成で、江戸時代初期にヌエバ・エスパーニャと呼ばれたメキシコへ渡り、現地に根を下ろした日本人の足跡を追い求める内容だ。読んだのがだいぶ昔なのでうろ覚えだが、アカプルコ周辺のある集落でサンダルを「ワラッチ(ワラジか?)」と呼んでいるとの逸話があり、興味をかき立てられたのを覚えている。
1968年に出版されたこの作品では、日本人の移住を示す具体的な話はほとんど触れられていない。だがその後いくつか新資料が発見され、不完全ながらベールが取り除かれつつある。
移住者が存在したこと自体は明白となっている。アステカ王国の元首長の子で修道士だった人物が書いた「チマルパインの日記」には、京都出身の商人とされる田中勝介が1610年に派遣された「田中使節団」のうち、3人がメキシコに残留したとある。伊達政宗が送り出し、3年後に日本を出発した「慶長遣欧使節」でも、使節団を率いた支倉常長がマニラから日本の息子に送った手紙で3人がとどまったとつづっている。この時には、ほかに数名が居残ったとみられている。
日本生まれで現地の名を持つ者も数人が確認されており、「ルイス・デ・ベラスコ」「フアン・アントニオ」「ルイス・デ・エンシオ」「フアン・デ・パエス」などが知られる。大泉光一・青森中央学院大学教授が書いた「メキシコの大地に消えた侍たち」によると、前の2人は田中使節団で残留した3人のうちの誰からしい。2人ともヌエバ・エスパーニャの副王を務めたルイス・デ・ベラスコ侯爵に同行してスペインへ向かい、ベラスコはスペイン艦隊の船で事務長を務めるまで出世したが、その後は貧窮し、1622年5月に召使い1人を伴ってヌエバ・エスパーニャへ帰国した。フアン・アントニオはスペインに10年住んだ後、1624年2月に帰国許可を求め、支度金の支給を認められている。2人ともその後の消息は不明だ。
一方、ルイス・デ・エンシオとフアン・デ・パエスについてはそれよりも詳しいことが分かっている。ルイス・デ・エンシオはフアン・デ・パエスの舅にあたる。
1960年代半ば、前出の大泉氏はメキシコ第2の都市グアダラハラのメトロポリタン・カテドラル(大聖堂)に残された死者・埋葬台帳を調査した。その際に発見した文書には、「(1642年5月29日に)日本人アウグスティン・デ・ラ・クルスがグアダラハラのサント・ミゲル病院で亡くなり、遺言執行人に日本人ルイス・デ・エンシオが命じられた」と書かれてあった。同氏はその後、1980年になってグアダラハラの公文書館にある商事関係の契約書から、彼があるスペイン人との間で交わした小売業の共同経営に関する2枚の契約書を発見した。これらの契約書には、ルイス・デ・エンシオ自ら、「福地蔵人・る伊すていん志よ」および「るいす福地蔵人」と署名してあった。
この契約書の存在は、ほぼ同時期にラテンアメリカ史の権威として知られるフランスのトマス・ガルボ博士も確認している。ただし、元スペイン大使でガルボ博士の研究に協力した林屋永吉氏は「グアダラハラを征服した日本人」(メルバ・ファルク・レジャス、エクトル・パラシオス著)に文章を寄せ、名前は「ソウエモン」あるいは「ヒョーエモン」であると説明している。
ルイス・デ・エンシオは別の資料から1595年ごろの生まれとされ、1620年ごろに受洗してキリシタンになったとの記録も残っているようだ。移住後は小売業にたずさわり、ペニンスラール(スペイン生まれのスペイン人)やクリオーリョ(植民地生まれのスペイン人)ではないにもかかわらず、経済的成功を収めた。私生活では、スペイン人と原住民との間で生まれたメスティーソの女性と結婚。10人の子をもうけ、娘の一人はさきに触れたフアン・デ・パウロと結婚している。
彼はどのような方法でメキシコへ渡ったのか。現時点では推測するしかない。
有力視されているのは、慶長遣欧使節に加わったとする説だ。大泉氏は名字の福地から彼が侍で、奥州で勢威を張った葛西家の家老を務めた福地氏の一族であるとしている。林屋永吉氏も石巻港から60キロの距離にある福地村の出身ではないかと推察している。
彼が武士か、裕福な家の出であったことは名前からもうかがえる。苗字を持つこと自体が上流階級に属する者の特権であったし、蔵人あるいは「衛門」の名も武士だった可能性を示す証拠になる。
さらに彼は自分の名を仮名で書く際、「エンシオ」ではなく「インシオ」と記している。東北では「え」を「い」と発音することが多い。慶長遣欧使節の記録に彼らしき名は見あたらないが、この説には確かに信憑性がある。
もちろん、他の方法が完全に排除されたわけではない。
前に述べたように、慶長遣欧使節が日本を出発したのが1613年の10月。翌年1月末にアカプルコへ入港した。総勢180人のうち、日本人は140人あまりを占めていた。メキシコからは、支倉常長を含む一部だけが欧州へ向かっている。
使節に参加した日本人は上陸後ほどなく数十人が受洗したという。欧州へ向かった人々は、支倉を除けばキリシタンだけで構成されていたようだ。とすれば、1620年ごろに受洗したルイス・デ・エンシオはどちらにも入らないことになる。
ここである疑問が頭をもたげる。ルイス・デ・エンシオはなぜ1614年に到着してから6年も受洗しなかったのか。
当時のメキシコは人種的にはわりかし寛容な社会が築かれていたが、生活となると話は別で、カトリック信者でなければ難しかった。キリシタンになることを拒絶し続けてきた彼なら支倉常長とともに帰国するか、他の参加者がそうしたように支倉を待たずに帰国するのが自然だ。
あまり知られていないことだが、このころ日本からメキシコへ渡った使節は他にもある。1617年の初め、フランシスコ会のディエゴ・デ・サンタ・カタリーナ神父らを乗せ、日本から戻ってきた船がメキシコに到着している。カタリーナ神父は日本との国交樹立を目的に派遣され、交渉が不調に終わったために戻ってきたのである。仮にルイス・デ・エンシオが大阪の陣で浪人となり、一行に加わって渡ったとすれば、時間的な無理はなくなる。
もしかしたら伊達政宗が慶長遣欧使節と同じように、彼をこの船で送り出したのかもしれない。そう解釈すれば、仙台藩士であっても矛盾しない。
このほかにも、彼がいったんマニラへ行き、そこから向かった可能性がある。
1570年にわずか20数名だったマニラの在留邦人は、1595年には早くも1000人に達した。貿易に従事する者もいれば、流刑者もいた。その数は朱印船貿易の開始によってさらに増加。1606年にはマニラ在住の日本人が水夫の殺傷事件を機に暴動を起こしているが、この時には1500人を超えていたといわれる。
日本人の増加と彼らの横暴ぶりに業を煮やしたスペイン側は、1608年7月に在留邦人の日本送還を命じるが、てんで効き目はなかった。キリシタンの取り締まり強化や大阪の陣による浪人の増加を背景に、1620年には3000人まで膨れあがった。こうした状況を考えれば、マニラ経由で向かった者がいても不思議はない。ルイス・デ・エンシオの義理の息子であるフアン・デ・パエスは大阪出身で1609年ごろの生まれとみられ、マニラを経由した一人である可能性が高いとされる。
1610年代にはマニラ~メキシコ間を年に1度ガレオン船が往復し、船員として雇われた日本人もいたらしい。移住となると監視もきつく簡単ではなかったろうが、彼も義理の息子と同じルートを辿ったのかもしれない。
晩年のルイス・デ・エンシオは事業に失敗し、妻の遺産まで食いつぶしている。それでもフアン・デ・バエスが彼以上の成功を収め、面倒を見ることができたので、けして不幸な人生ではなかったと想像される。
ただ、異国で生き抜くことの難しさに直面し、弱気になることはあったのではないか。もはや帰ることのかなわぬ祖国を想い、人知れず涙する場面もあったろう。彼が亡くなったのは1666年、推定71歳であった。
ポルトガル人が種子島に来航し、鉄砲をもたらしたとされるのは1543年。江戸幕府がポルトガル船の入港を禁じ、鎖国体制が事実上固まったのは1639年だ。この間100年に満たないが、海を渡り、異国の地に骨を埋めた日本人は相当数いたと思われる。大名の地位を捨ててマニラへ向かった高山右近もその一人だし、遠いところでは南米のペルーに奴隷として連れて行かれた日本人がいたことも分かっている。彼らもまた、望郷の念にかられる瞬間があったにちがいない。
文明の十字路へ・その4 [旅の記録]

ブハラ~ヒヴァはおよそ450キロ。タシュケント~サマルカンド、サマルカンド~ブハラよりはるかに長距離で、しかも道路が格段に悪いので、かなりハードな移動になると予想されます。7、8時間はかかるでしょう。
この日も車をチャーターしました。ホテルに頼んだので前日と同じような車を期待していたのですが、乗せられたのはソ連製のオンボロ車。もっとも、それは仕方がないことだとすぐ悟ることになります。。。
ブハラからヒヴァまではキジル・クム(赤い砂漠)という、この国の西半分を占める大砂漠を突っ切ります。ブハラ市内を抜け出るとだんだん景色が殺伐としてきて、道路から伝わってくる振動が大きくなります。
舗装区間はほとんどなく、大半が地面をならした程度。たとえ舗装されていてもなかなか通ってくれません。不思議に思っていたら至るところに穴。なるほど。

フロントガラスにヒビが。これはこの時についたものではありませんが、ヒヴァから空港のあるウルゲンチに向かう別の道中では飛び石がガラスに当たり「バチッ」。そこには涙目をした運ちゃんがいました。。。
こんな景色が延々と続きます。区間によってはまるでシケインを走るような状態。あちこちで工事していたので遠からず整備されるのでしょうが、ほぼ最後まで揺られっぱなしでした。おまけに運ちゃんがエアコンをつけたがらない。故障を気にしてのことかもしれません。おかげで汗だくでした。そうは言いながらも、疲れが蓄積していたのでけっこう眠りましたけど。

あと少しでヒヴァというところで大きな川を渡ります。これが有名なアム・ダリア。欧州ではオクサス川と呼ばれてきた川です。南東のパミール高原やヒンドゥークシュ山脈に端を発し、北西のアラル海に注ぐ長さ2400キロの雄大な川です。
アム・ダリアは「活発な川」の意。アラル海に注ぐ川にはこれより東、タシュケントの近くを流れるシル・ダリヤもあり、こちらは「静かな川」という意味です。ヨーロッパではこの2本の川に挟まれた地域をトランスオクシアナ(オクサス川の向こう)と呼んできました。
この川は過去に何度も流れを変えていて、カスピ海に注いでいた時期もあります。これから向かうヒヴァは、流路が変わったことから17世紀に入って繁栄を始めました。
アム・ダリアも近年は水が減り、そのせいでアラル海はどんどん水がなくなっています。今では注ぐ前に水が枯れてしまっているとか。これはソ連時代に綿花栽培が奨励され、不完全な運河が作られたためで、ウズベキスタンは世界第二位の綿花生産量を誇る一方、深刻な環境問題を抱えてしまっています。
長い移動に何とか耐え切り、夕方に到着しました。
本来ならタシュケント空港からそのままウルゲンチに飛んでヒヴァを訪れ、さらにブハラ→サマルカンド→タシュケントと回る方が、タシュケントの滞在時間を減らせるのでベター。あえて逆周りにしたのは、この町をクライマックスにした方がいいと考えたからでした。その考えは正解だったと思います。
ヒヴァはサマルカンドやブハラよりはるかに小さい一方、イチャン・カラ(内城)と呼ばれる地区はそっくりそのまま世界遺産になっていて、昔の雰囲気をどこよりも深く味わえます。

これが玄関口にあたる西門。小さい町ながらも堂々たるつくりです。ホテルは中にあり、入場券を買って入ります。
泊まったのは「マリカ・ヘイヴァック」。サマルカンドのホテルと同じくマリカ・ホテルグループが運営する宿です。西門近くにもマリカ・ホテルはあり、こちらはメドレセ風の立派な建物。当方が泊まった方はコテージ風ともいえる小さい建物で、豪華とはいえないものの、清潔で満足できるものでした。せっかく来たならイチャン・カラの中で宿泊した方がより浸れるはずです。
難点は水が塩分を含んでいてきれいじゃないこと。これはイチャン・カラの外を含め、どのホテルもそうでしょう。ネットは一応できるけれども、つながりが悪く遅いので、できるのはせいぜいメールチェック程度。タシュケントのウズベキスタン・ホテルすら満足にネットが使えないので、これも致し方ありません。
ホテルで荷を解いた後、さっそくうろつきます。

これが西門を入ってすぐのメーンストリート。カルタミナル(短い塔)と呼ばれるミナレットの美しさには息を呑むばかり。

イチャン・カラ内部は徹底して景観が統一されているので、どこに目をやっても絵になります。ここまで見事に統一感を保った観光地は欧州以外にはあまりないのではないでしょうか。

観光地だけあって撮影も行われていました。ビデオクリップか何かかな?結婚式を挙げたばかりのカップルもよく見かけます。

地元のアイドル、ラクダのカーチャです。誰も乗ってくれなくてヒマそうでした。ラクダはインド北西部から西がヒトコブ、中国北西部などの東がフタコブ。確かフタコブの学名のシノニム(異名)はウズベキスタンの一部を含んでいたバクトリア王国から来ていたはずですが、彼女はヒトコブでした。後ろに写っているように猫も多く、性格はカーチャ同様におだやか。

イチャン・カラの外を歩いていたときにサッカーをしていた少年。なかなかの男前です。ネットでこの写真を見つけたらぜひ連絡してくださいね!
ロシアとヒヴァの関係は、ピョートル大帝時代にさかのぼります。ペルシャからの圧迫を受けていたヒヴァのハンがロシアに応援を要請したのがきっかけでした。ピョートル大帝はしばらく経ってから使節を送りましたが、政治情勢が変わっていたため使節のほとんどが殺されてしまいました。しかしこの時は報復できる状況ではなく、その後も何度か遠征の計画が立てられましたが、ヒヴァは砂漠に囲まれている上、付近にはトルクメン人の盗賊が跋扈しており、たどり着くことすら困難な時代が続きます。
ヒヴァのハンはブハラ・ハン国のアミールに負けず劣らず残虐な人物が多く、奴隷の数でははるかにしのぐほどでした。奴隷にはペルシャ人だけでなくロシア人が相当いて、当然ながらロシアはそれを問題視していました。一方、それを懸念したのが英国でした。19世紀に入ってロシアの圧迫が強まると、シェークスピア中尉がこの地を訪れ、ハンを説得してロシア人奴隷を解放させ、侵略の口実を取り除くのに成功します。しかしそれも一時しのぎにしかならず、結局は侵略を止めることができませんでした。
1873年には初代トルキスタン総督のカウフマン将軍が攻撃を仕掛け、ヒヴァは属国の地位に転落します。その5年前にブハラ・ハン国、3年後にはコーカンド・ハン国が占領され、中央アジアは文字通りロシアの支配下に置かれます。ブハラ・ハン国とヒヴァ・ハン国はロシア革命まで存続しますが、それは名目上のことで、中央アジアの中世はこの時代を持って終了したといえます。
ヒヴァは昼間も十分すぎるほど美しい町ですが、圧巻だったのは夜でした。表へ出てみると…

もう言葉は要りませんね。ここにきて本当に良かった。

アトピーの症状が悪化し、足が血だらけになる中での旅でしたが、それが気にならないほど楽しめました。

あまり触れませんでしたが、ウズベキスタンは文明の十字路に位置するだけあって、人々の顔立ちや暮らしはさまざま。人種が混ざり合う土地ならではの、エキゾチックな顔立ちをした美しい女性がたくさんいます。それに男性も含めて性格はわりとおだやかで、イスラム教国の一部にみられるすれた感じはありませんでした。
今回は駆け足で東のフェルガナ盆地に行けませんでしたし、ぜひまた来たいと思います。そして次は現地の人々と深く交流できるような旅にしたいですね。
文明の十字路へ・その3 [旅の記録]
「壮麗の焦点、王国の神殿、当時の最もユニークな治世の会合所、世界の文学の地平、当代最高の学者たちの市であった」(アブドゥル・マリク・ターリビ、サーマン朝治下)
「この地上のあらゆる地域において、これほど繁栄し、すばらしい土地はない。もしコヘンディス(古代の城砦)の上に立つ人がいたなら、そして周囲に一瞥を投げたとしたら、この国のあらゆるところに美しい緑と鬱蒼とした新緑を除いては、何ひとつ目に入らないであろう」(10世紀の旅行家、イブン・ハウカル)

慌しい旅は続きます。3日目は220キロ西にあるブハラへ。少なくとも紀元前4、5世紀から存在し、サマルカンドとともにソグディアナの中心都市として栄えたところです。イスラム文化の流入後もサーマン朝の都として興隆を支え、その後はモンゴル軍による破壊でいったん荒廃したものの、16世紀にウズベク人のシャイバーン朝が首都に定め、サマルカンドをしのぐほどの復興を遂げることになります。
8世紀に中国の唐で安史の乱を起こした安禄山の名字はブハラを指します。彼はソグド人と突厥人の混血で、安は母の再婚相手の姓になります。同様に鑑真とともに来日した渡来僧で、唐招提寺の2代目住職を務めた安如宝の苗字もブハラを意味します。ブハラ生まれかは不明ですが、奈良時代にそんな遠くから来た人がいたとは驚きです。
時間の制約を考え、ブハラまではホテルにお願いしてタクシーをチャーターすることに。値段は忘れてしまいました。2人ということと、乗り合いを探す手間を考えるとベターな選択だったと思います。割高といっても日本の物価からすればかなりリーズナブルですし、こんなとこで無理する必要はないかと。車は新しく快適で、道路の舗装状態も良かったのですぐに寝てしまい、気がつけば到着していました。
ブハラのホテルは「ブハラ・パレス」。ここもタシュケントのウズベキスタン・ホテル同様に大きなホテルですが、古臭くて埃っぽい上、ロビーには蚊が飛び交っていて、快適とはほど遠いものでした。
ブハラの人口は25万人ぐらい。ホテルが中心からやや離れていたせいか、サマルカンドより大きく感じました。まずはタクシーでアルク城へ。

アルク城は昔も今もブハラのシンボル。高さ10メートルはあろうかという巨大な城壁を持つ堂々たるシタデル(城塞)です。何度も破壊されては再建され、現在の城は18世紀のものとされています。ただし木造建築物は1920年の赤軍による爆撃で破壊され、残っているのは石造りの部分のみ。

入口でお金を払い、階段を上っていると牢屋が。説明にはここで19世紀に英国人の2人が囚われていたと書いてあります。ピンときました。おそらくチャールズ・ストッダート大佐とアーサー・コノリー大尉でしょう。
1838年、ロシアの南下を防ぐためにアフガニスタンを押さえる必要性を痛感した英国は、第一次アフガン戦争を始めます。テヘラン駐在の政治将校だったストッダートはこの際、出兵の諒解を求めるために隣国のブハラ・ハン国へ派遣されますが、英国を警戒するアミールのナスルラーによって逮捕されてしまいます。
一方、もう一人のコノリーは、かつてペテルブルクからインドに至る大冒険旅行をやったことのある、いわばグレート・ゲームのベテラン。彼は3ハン国を英国の主導の下に連合させることがロシアによる侵略の盾になると考えていました。そしてヒヴァ・ハン国、コーカンド・ハン国のアミールと会い、ブハラ・ハン国との連合を説くものの、敵対する3ハン国を和解させるのに失敗。そのままストッダートを救出するためブハラ・ハン国へ向かい、彼もまた自分を転覆させようとしていると疑ったナスルラーに捕われてしまいました。それが1841年11月。
残念ながら運命の女神は彼らに微笑むことはありませんでした。やがて最悪のニュースが届いたのです。それはアフガニスタンにおける英軍壊滅のニュースでした。英国に攻められる恐れがなくなったことで、2人の運命は決してしまいました。
牢屋から引き出された2人は、両手を縛られたまま王宮前広場(入口近くか)に連れて行かれ、群集の見守る中で自分たちの墓穴を掘らされました。跪かされたストッダートは大声でアミールをののしり、先に首をはねられました。さらに首斬り人がコノリーに「アミールはお前がイスラムに改宗するなら命を助けてやろうと仰せだ」と言うと、コノリーは「そんなまやかしは結構だ。もう死ぬ覚悟はできている」と語り、自ら首を差し出しました。1842年6月のとある朝の事です。
コノリーの死には痛ましい後日談があります。彼が死んで20年が経ったある日、ロンドンに住んでいた妹の元に郵便局から小包が届きました。中身はボロボロになった聖書で、コノリーとストッダートが幽閉中に呼んでいたものでした。流転の末にべテルブルクのロシア人が入手し、親切にも送ってくれたのです。聖書の余白や巻末の白紙には小さな文字で彼らの悲運の詳細が書き込まれ、文章は突然、中断されていたといいます。
英国とロシアという19世紀の2大帝国が繰り広げたグレート・ゲームは、冷戦に勝るとも劣らない壮大なスケールの勢力争いでした。そして最前線にいた人間の多くは彼らのように非業の死を遂げています。
一方、3ハン国を含め2大帝国の間に挟まれた小国はあたかもチェスの駒のごとく扱われ、多くは近代化の波に飲み込まれ、やがては消え去っていくことになります。

アルク城に戻ります。城の上にはアミールの玉座や家畜小屋、モスクなどさまざまな建物があり、博物館も併設されています。ただ荒廃が目立ち、大部分はガレキと化しています。扉で閉ざされて行けなくなっているガレキのスペースは、近くのおじさんに金を払えば足を踏み入れることができます。わざわざ金払ってガレキを見たってねえ…と怪訝に思いつつ外へ出てみることに。

やっぱり何もなし、と思いきや…

反対側の城壁近くまでテクテク歩いて行くと、旧市街が一望の下に!こりゃすごいわ。
ブハラの歴史的建造物は1997年のブハラ建設2500年を機に大半が修復されています。一方でそれによって建物の特色が失われたとする意見もあるようです。私も同感。荒れるにまかせたアルク城の方が、幾度も外敵にさらされてきたという現実感が迫ってきてより深く印象に残るのでは。
アルク城を出た後は旧市街を散歩。ブハラは新市街を含めると広い町ですが、旧市街は1時間もあれば歩き通せます。

ここはポイ・カラーン広場。巨大で壮麗なカラーン・モスクと2つのメドレセに囲まれた旧市街の中心です。アルク城と並ぶブハラのシンボルであるカラーン・ミナレットもここにあります。
1127年にカラ・ハン朝のハーンが建設したこのミナレット、信者にお祈りを呼びかけることのほか、外敵を見張る役目も果たしていました。処刑にも使われていて、袋に詰めた罪人をてっぺんから投げ落としていたとか。このため「死の塔」という、ありがたくない別名も。
ストッダートとコノリーのケースに限らず、ブハラ・ハン国のアミールはとにかく残虐。グレート・ゲームは英国の立場から語られることが多いこともあり、3ハン国を力づくで征服したロシアがとかく敵視されがちですが、ひょっとしたら侵略されて良かったのかなとふと思ったりもします。
幸いというか、工事中で上に登れませんでした。眺めは素晴らしいようですが…

やがてラビハウズという人口の小さな池にたどり着きます。周辺にはメドレセなどの古い建築物に加えて、チャイハナや商店、ホテルも集まっているので便利。暑い中だったのでここで飲んだ瓶コーラは格別にうまかった。
池の周囲にはみやげ物を売るお姉さんや子供たちがいて、この国にしてはしつこく声をかけてくるのでちょっと面倒です。でもお姉さんのうちの一人がすごい美人で、思わず山の神そっちのけで見とれてしまいました。みやげ物は何も買いませんでしたけど。
ウズベキスタンは日本に比べてはるかに貧しい国。不謹慎のそしりはまぬかれないかもしれませんが、美人のお嫁さんが欲しい人は今すぐ荷支度した方がいいかも(笑

最後にホテルからの朝焼けです。興奮状態が続いていたためか熟睡できず、タバコを吸おうとバルコニーに出た際に見たのがこの景色です。撮影技術がなく、美しさを再現できなかったのが残念。空の色が青から紫、赤へと変わっていくさまはこの世のものとは思えないほど感動的でした。
ガイドブックを読む限りではサマルカンドや次に行くヒヴァほど魅力的ではなさそうだったブハラも、いざ来てみれば大満足。実際、ブハラが最も良かったという方も多いようです。
文明の十字路へ・その2 [旅の記録]
「話に聞いていた通り、いやそれ以上に美しい」(アレキサンダー大王)
「東西に長く南北狭し。すこぶる堅固にして居人多し。異邦の宝貨多くこの国に集まる。土地は肥沃で、気候はおだやかで多く善馬を産する。住民の性格は勇気を好み、王様は豪勇。兵馬はよく訓練され、騎士は勇烈にして死をみること帰するがごとし」(玄奘三蔵)

翌朝早く起きてサマルカンドに向かいます。
タシュケント~サマルカンドは約350キロ。飛行機もありますが、値が張る上に本数も少ないので便利とはいえなさそう。実際バス、タクシー、列車のいずれかを使うのが一般的。ここは一度乗ってみたかった特急レギスタン号で向かうことにします。

これがタシュケント駅。立派な建物が多い共産圏の駅舎ですが、ここもたいそう立派でした。チケットは日本でとっていたので、前日に赴く必要も、列に並ぶ必要もなし。しかも改札がなくいきなりホームへ。車両もすぐ分かりました。乗りすごしたら事前に立てたスケジュールが台無しになるのでやや不安でしたが楽勝でした。レギスタン号のタイムテーブルはネットでもチェックできます。

レギスタン号。中央アジア屈指の豪華列車として有名な割には…。日本の感覚でいるとがっかりすると思います。コンパートメントは片側3人掛けのシートが向かい合っていて、お茶と簡単なサンドイッチが出されます。残念だったのは、窓が汚れていて車窓の景色がよく見えない点。ただし、タシケント~サマルカンドの景色は特筆に値するほど美しくはなく、さして印象に残りませんでした。ありがたかったのは乗降口そばのデッキに灰皿があってタバコが吸えたこと。
コンパートメントではロシア系と思しき10代の少年少女とご一緒しました。女の子はかわいかったなあ。意外にもアイフォーンを持っていました。おそらくかなり裕福なんでしょう。ソ連崩壊を機にロシア人は減る一方。ただし上流階級に属する人が多めで、彼女たちもそうなのでしょう。
真夏とはいえ、タンクトップ一枚のきわどい格好をしていたのは驚き。ウズベキスタンはイスラム圏に属します。後ろ指をさされることはないのでしょうか?もっとも彼女たちに限らず、この国では都市部では特に欧米並みに着飾った女性が多く、とてもイスラムには見えません。「なんちゃってイスラム」といわれるのもうなずけます。
女の子の姿に気後れして、おじさんは写真を撮らせてもらうのを忘れてしまいました。。。
朝7時に出発し、11時前に到着。ついに憧れの土地に足を踏み入れたかと思うとこみ上げるものがあります。
サマルカンドは「人が集う場所」という意味で、紀元前2000年から存在しているといわれます。古くは商売上手で知られ、東西交易で重きをなしたソグド人が住み、アレキサンダー大王の遠征時にはかなりてこずらせたことでも知られます。唐とアッバース朝が戦ったタラス河畔の戦いの後、中国以西で初の製紙工場が作られたのはこの地。イスラム教が入ってからも、いわゆるマーワラー・アンナフルの中心地として繁栄し、世界一の都市とさえ言われました。その後はモンゴル軍の来襲で壊滅的な損害を受けたものの、その後に登場したティムールによって再建され、繁栄を取り戻すことになります。
現在は人口40万人に満たない小さな町ですが、それはそれでのんびりとしていて好印象。
ふと見上げると、これでもかというほど澄み切った青空。さすがは「青の都」と呼ばれるだけのことはあります。灼熱の7月は旅にふさわしい季節ではないのでしょうが、この青空を見れただけで大満足です。

宿泊先は「マリカ・プライム」。今回の旅でダントツに良かったホテルでした。こじんまりとしてるけど、とにかく清潔でおしゃれ。3年前にできたばかりだそうです。従業員も親切で文句なし!事情あって無理なお願いもしたのですが、イヤな顔ひとつせずとことん付き合ってくれました。しかもホテルの前は緑が豊か。ロケーションも良いので個人旅行者にはかなりおすすめです。
ホテルを出てまず向かったのは、歩いて5分の場所にあるグル・アミール廟(支配者の墓)。ティムールとその一族をまつった墓所です。

この建物がまたすばらしい。青いドーム(円屋根)が色鮮やかで、さすがに中央アジア建築物の最高傑作のひとつとされるだけのことはあります。ちなみにこのドーム、「ひだ」の数が63本あるとか。これは預言者モハメッドの没年が63歳だったことから決められたそうです。

これが内部。壁から天井に至るまで、黄金のきらびやかな装飾が施されています。あまりの豪華絢爛さに、2人して口をポカンと開けたまま見入ってしまいました。

真ん中にある黒緑色をした棺がティムールのもの。実際にはこの中に遺体はなく、地下3メートルの場所にある墓室に安置されているそうです。
1941年、ソ連の学術調査で棺が初めて開けられました。ティムールは足を引きずっていたことから「びっこのティムール」と呼ばれていました。よく戦闘中に負傷したためとされますが、どうやら原因となった傷はその時のものではなく、若いころに盗賊をしていた際にできたもののようです。調査結果はというと、やはり渾名の通り右足が短かったとのこと。
ティムールはチンギス・ハンに次ぐ巨大な版図を手中にした人物ですが、私の中では冷徹なイメージがあるチンギス・ハンと違い、何となく親しみやすい存在。実際にはティムールもけっこう残虐な行為を行っているんですが。
おそらくチンギス・ハンが草一本残らなかったといわれるほど方々を破壊し尽くしたのに対し、行政面でも手腕を発揮して国家の建設にも力を入れたほか、部下に自らの財産を惜しみなく与えた点がそうイメージさせるのでしょう。
ただしティムール朝の隆盛を語る上で、孫であるウルグ・ベクの貢献を忘れるわけにはいきません。彼は醜い後継者争いが繰り広げられる中で息子に殺されるという悲劇的な最後を遂げた人ですが、学者肌の人だったようで、文化の面で多大な貢献をしました。彼自身も研究にいそしんだという天文台の遺構は今も残されています。ソ連の学術調査では、彼が首を切り落とされて死んだことも裏づけられました。
グル・アミール廟の次はサマルカンドのシンボル、レギスタン広場へ向かいます。レギスタン号の名前にもなっているこの言葉は「砂の土地」を意味します。昔この辺りは運河で、砂場が多かったためだとか。数百メートル歩くと、壮大なメドレセ(神学校)が前庭を囲んだ有名な景色が左手に見えてきました。

レギスタン広場を過ぎると道を左に折れます。10分くらいでしょうか。やがて左手に見えてくるのは、イスラム世界で最大規模とされるビビハニム・モスク。ティムールのインド遠征からの凱旋を称え、妃のビビハニムが作らせたとされるモスクです。

この建物にまつわる伝説にはいろいろあり、完成はしたもののティムールの気に入らず、建築家が処刑されたといわれています。あるいは絶世の美女とされたビビ夫人に惚れた建築家が愛を告白し、彼女が頬にキスするのを許したところ跡が残ってしまい、凱旋から帰ってその事実を知り、怒り狂ったティムールは建築家を処刑し、妃をミナレット(尖塔)から投げ落としたといいます。もしくはビビ夫人はその美貌を誰にも見られないよう、ワランジャ(黒いベール)で顔を覆うようになったとも。イスラム女性が顔に黒いベールをかけるようになったのはそれがきっかけだとか。
グル・アミール廟の修復が完了しているのに対し、このモスクは崩れかけのままで修復も遅々として進んでいない様子。でも崩れかけたドームや壁がかえって悠久の歴史を感じさせてくれます。

さてシャブ・バザールを過ぎ、大きな通りを越えるとそこにあるのはシャーヒ・ジンダ廟。「生きる王」を意味する墓所で、ティムール朝ゆかりの貴族らが眠っています。

傾斜地に、古くは11世紀、新しいものでも15世紀のお墓がずらりと並んでいて、入り口のタイルや内部の装飾には目を見張るものがあります。青の都を象徴する場所です。
シャーヒ・ジンダ廟の向こうはアフラシャブの丘と呼ばれていて、1220年にモンゴル軍が来襲し、住民の4分の3が殺されるという大殺戮を行うまでここに町がありました。中央の小高い丘に宮殿があり、それを取り囲むように貴族や政府高官の家が並んでいたそうです。周囲は運河で囲まれ、運河の外周に一般の住民が住んでいました。
それが今やすっかり荒れ果て、往時をしのぶものは何ひとつ残っていません。それでもアレキサンダー大王時代のコインや中国の貨幣が出土することもあったようで、運が良ければ世界一の都市といわれた時代の痕跡を見つけられるかもしれません。丘に隣接した博物館ではソグド人の壁画も見られます。
ホテルからここまで2キロぐらいでしょうか。一本道を無駄なく歩いてきたとはいえ、ものすごい炎天下だったのでかなり疲れました。さらに歩いて30分ほどの場所にあるウルグ・ベク天文台跡をパスしてしまったのが悔やまれます。
余談ですが、ウズベキスタンでは普通のミネラルウォーターだけでなく、炭酸水も普通に販売されています。味はというと、銘柄にもよるけど微妙、かな。でもこの暑さを考えると炭酸水の方が体調維持に効果的なのかも。暑さで意識がもうろうとしていたのか、山の神は2回も買い間違えてしまいました。
それと困ったのが昼食。観光地の割に適当なレストランがない。疲れているので地元料理は避けてピザとか軽めにしたかったけど、ホテルのそばにあるレストランはあまりおいしくなさそう。どうしようかと二人して話しながらタクシーでホテルに戻っていたら、見慣れた「M」の文字が!なんだ、ウズベキスタンにもマクドナルドあるんじゃ~ん!いや~、助かった。

(; ・`д・´) ナ、ナンデスト!!
結局ホテルの近くまで歩いて戻り、おいしくないピザを食べるハメに。ちなみに「マロカンダ」というのはサマルカンドの昔の名前です。知識って本来、苦労しながら身につけていくものなんですよね?
文明の十字路へ・その1 [旅の記録]
旅好きで放浪のようなことをしていたというと、「どこが一番良い?」とよく聞かれます。
でもこの質問、的確に答えるのが本当に難しい。社交辞令で聞いてきただけなら適当に返せば済むけれど、心から参考にしたがっている場合は、こちらとしてもおざなりに答えるわけにはいかない。
旅好きとはいっても大きな都市をなぞるようにひと通り訪れただけ。訪問国を増やすこと自体が楽しみだった時代こそ過ぎ去ったとはいえ、自分より多くの国を訪れている人はザラにいて、げんに親友の一人は2倍近い国を訪れていたりします。
生半可な経験しかない自分がエラそうに答えてしまっていいものか。。。
それにひきかえ、「次はどこに行きたい?」という質問は楽チンです。また行きたい場所か、行き損ねた場所を挙げればいいんですもん。順位づけにしたって、その時々で多少は違えども、いつも同じような結果になりますしね。あとは行ける条件さえ整えばってそれが一番難しいか。う~ん、定年が待ちきれん。このままだとその頃にはくたばってるかもしれんし、何とかならんのか。。。
そんなもどかしい思いをしていた矢先、まとまった休みがとれる絶好のチャンスが。仕事がほんの少し落ち着き、周囲の理解もあって永年勤続休暇の権利を行使できそうになったのです。
海外へ行けるのが夏休みぐらいしかなく、しかも連続だと土日を含めても5日程度が限界。これに対し、永年休暇は平日だけで連続5日の休暇取得が可能です。土日と合わせれば9日間も夢じゃない!
さっそく仕事中にも見せない真剣な顔つきで世界地図を眺めます。
チベットのラサからカトマンズへ移動しつつエベレストを眺めてくるってのはどう?
ラダックのレーから中国のヤルカンドにも抜けてみたいなあ。
今回は山の神が同行するからある程度はゴージャスにしないと。二度目だけどアメリカ西海岸をドライブってのもいいかな。オーストラリアもいいね♪
とまあ、自分でもあきれるほど次から次へとアイデアがわいてきて、日夜こうした会話が人知れず繰り返されるわけです。そのクセして結論は出ていたりするのですが。
昔から興味があったのに機会が得られず、行きたくてムズムズしていた場所とは中央アジア。中央アジアと聞いただけで、シルクロード、タメルラン、グレート・ゲーム、マーワラー・アンナフル…と、子供のように胸がワクワクドキドキするキーワードが次から次へと思い浮かぶのです。
できればカザフスタン、キルギス、タジキスタン、トルクメニスタン、ウズベキスタンの5カ国すべて訪れたい。アフガニスタンもね。でもさすがに9日間じゃ厳しい。でもって泣く泣くウズベキスタン1カ国に絞ることに。
とはいえ、ウズベキスタンは中央アジアの中心を占め、観光名所や歴史的遺産も他の国より多いので、この国だけでも大いに楽しめそう。大事なのは現地に赴き、現地の空気を吸うこと。旅したいと思ってあれこれ調べるだけでも大いに価値があるとは思いますが、現地に行き、ついでに知識を身につければ一石二鳥です。
日本からウズベキスタンへ空路で訪れるには、主に以下の4つの方法があります。
1、ウズベキスタン航空
2、アエロフロートロシア航空
3、トルコ航空
4、アシアナ航空または大韓航空
この中で1だけが直行便。せっかくならモスクワかイスタンブールを加えたい。でもわずか9日でウズベキスタンと合わせて観光するのは日程的にかなりきつい。しかも旅行会社にあたってみると、トルコ航空便は空席なし。天下のアエロフロートもなぜかこの時期は直行便より値段が高かったり。いつでも行けて、たいして興味もない韓国はパス。健康面や山の神の参加を考慮し、直行便を使うこととします。
実はウズベキスタン航空、なかなか便利なんです。日系キャリア並みのサービスは望むべくもありませんが、中央アジア最大規模の航空会社で保有機材も多く、安全面では十分に合格点をつけられます。日本からは関空経由の便が週2回飛んでいて、結局は9日間まるまる使えないとはいえ、限られた期間で効率よく回るにはやはり便利です。
さて、東京の生活でたまった垢を流しに行くとしますか!
あ、行ったのは昨年の7月です。画像の行方が分からなくなって今さらのアップになった事実はくれぐれも伏せといて下さいませm(_"_)m

9時間のフライトを終えてタシュケント国際空港に降り立つと、出迎えたのは予想以上に殺風景な建物でした。しかも、この便の乗客はこのまま他の目的地に飛ぶ人が多く、誰も建物から出る気配がない。いきなり空港のどこから出ればいいのか、そもそも出てもいいのかすら分からないときた。そこら辺、いかにも旧ソ連の国といった感じです。ここはテキトーに動いていたらすんなり出られました。
ちなみに、物価が経済レベルに比べて高めなのもソ連的。正確な相場は忘れましたが、タクシーの値段は台湾とあまり変わらなかった印象があります(白タクは別)。といっても、たいていの商品は日本より安く、例外はティッシュくらいでしょうか。これはイジョーに高かった。
タシュケントの人口は200万人以上。中央アジア最大の都市で、唯一の地下鉄もある大都会です。
タクシーから街を眺めていて意外だったのは、これでもかというくらい街路樹が植えられ、緑が多いこと。ガードレールがなく、道路が広いせいもあるのか、まるで公園の中を走っているように感じます。オアシスに支えられてきた国だから自然保護の意識が高いのかな?
あるいは計画的な町づくりに異常ともいえるほどの熱意を燃やしていた共産党の発想かもしれません。特にこの町は1966年の地震で壊滅状態になり、近代都市へと変貌を遂げた経緯があります。ここは新市街だし、人工的な印象からしてやっぱこっちかな。独裁に近い国なので誰かさんの見栄もあるのでしょう。
前に訪れたウランバートル同様、この都市も「ヘソ」が分からない。どうやら宿泊したウズベキスタン・ホテルの前にある中央広場が中心といえそうです。が、周辺を歩いても高級ブティックがチラホラあるぐらいで、繁華街は一向に見あたらない。とにかくだだっ広く、人口密度が低い。
ちなみにお世話になった旅行会社の話によると、この国を訪れる場合は事前にホテルを決めておかないとNGだとか。バックパッカー時代なら「そんなこたあ知らん!」で済ませる話ですが、今回はアドバイスに従いました。費用はともかく、限られた期間で効率よく回るならこっちの方が断然いいです。苦労を楽しむ旅でもないし。
はっきり言ってウズベキスタン・ホテルはいまいちでした。大きくて、団体旅行にもよく使われる有名ホテルですが、いかんせん建物が古い。ネットも1階に降りないと使えず、おまけになぜか日本で買っていった電源のアダプターが合いませんでした。これは貸してもらえましたけど。
あとこの国はレギストラーツィア(滞在登録)が必要で、宿泊の際にはホテルにパスポートを預け、チェックアウト時にスタンプを押してもらう必要があります。これをしないと場合にっては厄介なことになるので注意。と書いておきながら、山の神が見事にもらい忘れ、慌てふためく場面のあった今回の旅でした。

夕方に到着し、ざっとシャワーを浴びた後で周辺を散策。う~ん、緑がいっぱいで清潔なので気分は爽快、と言いたいところですが…とにかく暑い。ウズベキスタンの7月は「チッラ」と呼ばれ、30度超えは当たり前。下手すりゃ45度とかになります。この日も35度ぐらいあったでしょうか。日本のようにジメジメはしてないけど、風があまり吹かず、直射日光の下なのでしんどいです。もっとも、それは無理やり連れてきた山の神の機嫌を損ねまいと気遣ったためかも(笑。陽が落ちきってようやく涼しくなりました。

この中央公園、もともとはスターリンの像が建っていました。その後はマルクス。そして今はティムール(タメルラン)です。中世のユーラシア史を語る上で欠かせないこの征服者は、ソ連崩壊後に再出発したこの国のシンボル的存在。といっても、ティムール自身はテュルク化したモンゴル系部族バルラスの出身で、人口の8割を占めるウズベク族の人ではありません。ウズベク族は北方から南下してきてティムール朝を崩壊させた民族なので、敵対する存在ともいえます。
それなのに持ち上げるのは不自然に思えますが、背景には多様な民族で構成されるこの国を統治する上で、彼の名声を利用する思惑があるようです。さらにいえば、中央アジア全体を征服した彼を前面に押し立て、中央アジアのリーダーであることを誇示したいのではないでしょうか。
タシュケントはこれから向かうサマルカンドやブハラに比べると見どころは少なめ。第二次大戦でソ連に抑留された日本兵が建設にひと役買ったアリシェル・ナボイ劇場や、アミル・ティムール博物館はありますが、時間がないのでパス。旅の基点に使うだけで我慢です。
とはいえかつては石国と呼ばれ、玄奘三蔵も通ったことがあり、それなりに歴史はあります。
19世紀のユーラシア大陸では、不凍港を求めて南下するロシアと、インドを奪われたくない英国による激しいせめぎ合いが繰り広げられました。それがグレート・ゲームです。その中でこの国を含む西トルキスタンはことごとくロシアの手に落ちていくわけですが、タシュケントはその橋頭堡になった町です。
19世紀の西トルキスタンは「3ハン国」と呼ばれていたコーカンド・ハン国、ブハラ・ハン国(ブハラ・アミール国)、ヒヴァ・ハン国が支配していました。タシュケントはコーカンド・ハン国に属していました。交易の便に恵まれ、豊かな果樹園や牧草地に囲まれた10万都市だったため、ブハラ・ハンのアミール(藩王)は機会を見つけては併合しようと目論み、何度もちょっかいを出していました。そして1865年、両国は再び戦闘を始めます。
ここで漁夫の利を得ようと進出を開始したのがロシアでした。この年の5月、ロシア軍はタシュケント城を攻めて25倍の敵を駆逐すると、税金を1年間免除するなど寛容をもって市民にのぞみ、たちまちのうちに心をつかんでしまいました。2年後にはトルキスタン総督府が置かれ、コーカサスでの戦いで勇名を馳せたカウフマン将軍が初の総督に任命されます。彼は与えられた任務を見事にこなし、3ハン国は次々とロシアの軍門に下り、中央アジアのロシア化・近代化が急速に進むことになります。

台湾へ [旅の記録]
さて、今回のお題は台北です。
昨年11月に仕事で台北、台中、新竹と訪問しました。5泊6日だったとはいえかなりタイトなスケジュールでフリーの時間があまりなく、たいして有益な情報もありませんが、台北観光の王道ということで、初めて行かれる方の参考になればと思います。
今回の出張はさる機関からの招きで、おかげで事前準備はほとんどせずにすみました。キャリアはエバー航空。チャイナエアーも選べたのですが、事故率が高いので避けました。
台湾は、その昔トランジットでごくわずかな時間だけ滞在したのを除けば初めて。日本から近いのでじきに訪れると思い、キープしておいたのでした。

台湾旅行の何がいいかって、何といっても羽田―松山空港便という、すばらしく便利な便がある点。成田まで出向く必要がない上、松山空港は台北市内のど真ん中といっていいほどの場所にあるので国内線感覚で利用でき、かなり時間と体力の節約になります。
しかも今回はビジネスクラス!ほぼ180度までリクライニングできるシート、贅を尽くした機内食、快適な全日空のラウンジと、至れり尽くせりでした。約3時半のフライト時間が短すぎると残念に感じたくらい。
松山空港は国内線中心で羽田よりかなり小さく、空の玄関口にふさわしいとは言い難い施設ですが、大きすぎず、小さすぎず、なかなか便利な空港でした。
少しでも時間を稼ぐため、日曜到着の予定を土曜日に変えていただき、土日であらかた観光することに。土曜の夕方に到着してホテルにチェックインした後、タクシーを拾い士林の夜市へ。

台湾名物として知られる夜市の中でも、ここは最もメジャーな場所です。多分に観光客向けな部分はありますが、射的やファストフードの出店が賑やかに沿道を埋め尽くし、日本の夏祭りに似た気分を1年中味わえます。

出店の中にはこんなものまで。麻雀牌を使っているけど要するにビンゴ。牌のヤマからいくつか選び、縦、横、斜めのいずれかが揃えば景品がもらるようです。並んだ列の数が多いほど景品のグレードもアップするようで、1等の中にはiPhoneも。ただし、1等はよほどのことがない限りないみたい。

屋台村というか、食堂を集めた施設もあります。有名なそぼろご飯で50円程度だったでしょうか。観光客向けなので味はいまひとつ。留学中で現地に住んでいる同僚も味の面ではあまりおすすめしないとのことでした。体験しただけでよしとします。
沿道の人波は夜遅くなってもなくなることはありません。短い滞在でも士林の夜市は外せません。

翌日はまず市の北郊にある故宮博物院へ。
故宮博物院は北京にもありますが、台北の方が質、量ともに北京を圧倒しています。国共内戦に敗れた国民党が台湾へ逃げる際に多くの文物を持ち去ったのはご存知の通り。殷周時代の土器から国宝級の山水画や陶磁器、中華民国時代の外交文書に至るまで、ありとあらゆる貴重な遺産に囲まれていると、悠久の歴史が肌身に感じられます。
写真撮影は禁止なのでお見せできず残念。駆け足で見てもゆうに2、3時間はかかるので、事前に調べ、基礎知識を頭に叩き込んでおいた方がベターかもしれません。そうでなくても日本語案内の携帯プレーヤーを借りた方が展示内容をよく呑み込めるはずです。

後ろ髪を引かれる思いで故宮博物院を後にして、次は市内やや西寄りにある西門町(シーメンディエン)へと向かいます。ここは日本で言う渋谷や原宿のような場所。実際、渋谷のハチ公前に雰囲気がソックリでした。

西門町を訪れたなら、ぜひ紅楼に足を運ぶべし。かつて日本が台湾を統治していた時代、この周辺には多くの日本人が住み、現在と同じく台湾の流行発信地になっていました。
日本が日清戦争で勝利し、下関条約を結んで台湾を植民地化すると、清朝が数十年前に築き、台北市を取り囲んでいた城壁が取り払われました。そして台風の被害に見舞われたこともあり、近代的な街へと変貌を遂げます。
紅楼は日露戦争直後の1908年に建てられました。台北には総督府として使われていた総統府も現存していますが、当時の街並みを今に残す貴重な建物です。

後日訪れた台北駅前。日台合弁のデパート「新光三越」があり、ここもかなり賑やか。
ちなみに台北市の人口は約260万ですが、周囲を囲んでいる新北市には400万人近くが住んでいて、ざっと見た感じでも大阪よりは小ぶりだけれど、名古屋とはいい勝負という印象。ただし想像していたほど先進的ではなく、地震対策もあるのか、最近まで世界で最も高い高層ビルだった「台北101」以外に高いビルはあまりないようです。
むしろ氾濫する広告看板はいかにも中国的。適度に清潔で、日本でおなじみの店があって便利で、さらには人も礼儀正しく親切で、それでいてアジア的カオスのあるところが最大の魅力ではないでしょうか。

アジア的カオスといえばスクーターも取り上げなくてはいけません。市民の足になっていることはもちろん知ってたけど、まさかこんなに多いとは…。車にしか乗らない人にはさぞかし邪魔でしょうが…
路上駐車もかなりひどい。台湾では車を購入するのに車庫証明が必要ないため、路駐天国となってしまい、都市部の駐車場不足はかなり深刻。マナーを守ろうにも駐車場がなくてはどうしようもない。盗難のリスクもあるし、早急に解決せねばなりませんね。
ただ、誰もまったく困らない場所にちょっと駐めただけでも高いお金をふんだくる日本の制度も大いに問題アリだぞ\_(・ω・`)ココ重要!
まあ、ちゃんと払いますけどね…
車の顔ぶれは日本とほぼ同じでした。違いは日本メーカーの米国仕様や米国車が多い点ぐらいでしょうか。あと日本で売られていない欧州車や韓国車も見ました。高級車の比率は東京とそう変わりません。軽自動車は見かけませんでしたけど。
ちなみに気のせいか、台湾では車高を下げた車が多い気が…。これは本当にそうなのか、残念ながら確認できませんでした。

写真はアコード。これが米国仕様なのかはよく分かりませんし、もともとアコードのデザインは良くできていると思うけど、ここではえらくカッコ良く見えたな~。中国旅行の際にも触れたように、どうもホンダ車は海外向けの方がデザインがよろしいようで。せっかく日本で発売した欧州仕様のシビックもなぜかタイプRになっちゃってるし。もう少し考え直した方がいいと思うけどな~
最近、米国で評判の悪いアコードのクロスツアーが気になっています。最近のホンダ車に共通して見られるせり上がったウエストラインは鬱陶しいものの、なかなかユニーク。むしろこの車は日本で販売した方が面白そうです。

もう1台。インフィニティのクロスオーバーです。FX45かな?何台か見ました。日本では逆輸入車扱いですが、東京ではたまに見かけます。これもいいデザインしてますね。カイエンよりはるかにこっちの方がいいわ(オーナー様すみません)
まあ、SUVにはいい車が多いと認めながらも、車高が高く後ろの車に迷惑になるのと、都会に住みながら理由なく乗るのが恥ずかしいのと、ソアラを手放す気がないのとで買う予定はございません…

余談です。新竹で泊まったシェラトンの部屋。それはそれは豪華で、当方には勿体のうございました…。メシも最高!自腹じゃないので余計に満喫できましたよ(笑。メシ食った後にすぐバタンキューしたのが悔やまれます。
円高もあって台湾の物価はかなり安いです。ホテルの値段は別として、市内の移動は新交通システムやバスを使わなくてもタクシーで十分。スニーカーやジーンズは日本の3分の2から半額くらいの印象でした。買うものを決めとけば良かった。

駆け足の観光だったので、他に行ったのは総督府と、蒋介石の顕彰施設である中正記念堂、台北101ぐらい。台北101は残念ながら天気とスケジュールが合わず、地下のレストランで食事しただけで終わってしまいました。
もし時間があれば、高級住宅地の天母(テンブー)、郊外にある新北投温泉あたりに行くといいでは。映画「悲情城市」のロケ地で「千と千尋の神隠し」のモデルとされる九份(ジォウフェン)や、港町で夕陽が美しい淡水(ダンシュイ)も日帰り圏内にあります。
体調面で不安もあったけど、やっぱ海外は良いですな!帰国後の反動を入れても十分おつりのあった旅でした。
仕事の方も、今回は10数カ国の人に混じってのツアーで、英語力のなさに凹む場面も多々ありましたが、それも終いには互いに嫁のグチをこぼし合うほど打ち解けたとさ(笑
最後に中正記念堂がある民主広場のパノラマ写真を載せておきます。前回取り上げたカシオのコンデジには360度のパノラマ写真を簡単に撮影できる機能もついています。次はボタンひとつで動くスライドショーにしてみたい。

加工してみた・その2 [車]
デジカメは仕事の必需品で、これまではニコンの一眼レフを携行していました。でも重くて荷物が増えるので不便。今年は特に出張が多く、CFSを抱える当方はそのたびに難渋していました。
そんな折、同僚がリコーのコンカメを購入。画像の出来映えの良さに、隣で指をくわえて見ているのが我慢ならず、衝動的に買ってしまいました。

それがこれ。カシオ計算機の「エクシリムEX-ZR100」です。前に買ったエクシリムが全く使えなかったのでちょっと不安でしたが、これは当たりでした。シャッターの切れは良いし、持ちやすさ、操作性もなかなかのもの。フルHDの動画も撮れるし。前回デジカメを買ったのが5年以上前だったとはいえ、その進歩にはかなり驚かされました。
それにしても、これだけ高機能化して2万円以下とは。デジカメなんて最低でも3万円台後半はするものと思い込んでいたので、これまたびっくりです。
なぜ前回の失敗があったのにエクシリムを選んだかというと、この機種にはHDR機能が搭載されているから。HDR機能はペンタックスの一眼などにも搭載されていますが、エクシリムの絵は群を抜いて魅力的。「これでソアラを撮れば、腕のない自分でも人様に見せられる程度の画像が楽に撮れる」との下心が背中を押したのでした。
先週末の夕方、近くの公園でソアラを撮影してみました。

そこそこきれいで、自然もわりと豊かな公園。でも足繁く通いたくなるほどではない。おまけに紅葉シーズンが終わりに近づき、樹木の葉が落ちかけて寂しげです。

HDRモードで撮影した画像はこれ。ほとんど変化がないですね。そこでダイヤルを回して「HDRアート」にしてみると…

絵画チックに大変身!寂しげだった樹々もいきいきとして、色を取り戻したかのよう。それにしても、やっぱソアラはカッコいいわ~。

前方から。HDRアートでは白い部分が黒く染まります。反対にグリルは白っぽく変化。いずれにせよ、カッコいいことに変わりはありません(笑。

今度は真後ろから逆光気味に。この方がより効果的かも。

そして真横。冬の夕方は空が澄んでいて、おまけに夕映えが美しいので撮影にうってつけですね。寒さに弱い当方も日暮れまで夢中で撮影。

質感がイマイチなコックピットも十分サマになります。

実は、このコンカメを買ってもう数ヶ月になるのですが、いまだに見ていて全く飽きが来ない。
唯一困った点を挙げるなら、見る方が楽しくなりすぎ、撮影しに出かける機会がさらに減ったこと(笑。それでは本末転倒なので、正月こそどこかへ出かけてみようと思っています。
加工してみた・その1 [車]
ソアラが家族の一員となったのが確か2005年8月だったから、もう6年半近くになるわけです。購入時の走行距離は3万1000キロでした。対して現在の距離はというと、7万6000キロ弱。う~ん年に1万キロ以下か~。週末ドライバーとはいえ乗らなさすぎだな~。
特に今年は、たまに乗ったとしても気分転換を兼ねて都心まで馬券を買いに行く程度。100キロ以上遠くに行ったのは一度もないかもしれません。旧車の仲間入りつつあるとはいえ、さほど故障を気にせず、長距離をガンガン、快適に走れるのがこのクルマの魅力でもあるはずなのに。これじゃあいけませんね。
ということでソアラに関するトピックスは以上。
で終わるのはちと寂しいので、暇つぶしにやってみた画像加工の話を取り上げます。
ちょっと前までの画像加工といえば、フォトショップを使ってメンドクサイ操作にアクセクしながら…というイメージでしたが、最近は手法が多様化して、タダで楽しめるサービスも充実してきました。そこで手元にある画像を使って暇つぶしに加工したソアラたちをアップしておきます。

前に当ブログで取り上げたものを適当に加工したものです。ネタばらしをしてしまうと、使ったのは「写真加工ドットコム」というネットサービス。無料で利用できる上、適当にボタンを押していれば「はい一丁上がり」というあっけなさ。

これは加工前。三脚を使ったのでピントは一応合っていますが、せっかく有名ブランドのお店が背景なのでもうちょっと華やいだ雰囲気にしたいところ。かといって撮り直しに行くのはめんどっちい。

そこでちょっと明るめにしてみました。構図を替えるのはさすがに無理ですが、これだけでも少しは華やかになった、かな?

地元の商店街。何の変哲もない、どこにでもありそうな商店街がそこそこ見られるようになるから不思議です。カネないヒマない技術ないの三拍子そろった人(つまり私ということですが)にはうってつけです。

いつだったか、真夜中に横浜の赤レンガ倉庫まで流したときの写真です。小雨がそぼ降る中の撮影で、しかもこの後すぐお巡りさんが来て追い立てられたため、これ一枚しか撮れませんでした。これをいじくると…

こんなのや…

こんなのまで。雨に濡れた路面が強調され、人気のない倉庫の美しさを引き立てています。実際は真夜中にもかかわらずけっこう人がいて、後ろ指をさされながらの撮影だったんですけど(笑

「東京散歩」の中で取り上げた六本木での写真を加工してみました。構図とピントさえ何とかすればド素人でもプロっぽくできそうです。

これはHDR加工。元画像よりも陰影がはっきりしています。

昭和風のスナップにしてみました。当時はこんな感じだったのかな?1978年だとまだ存在していませんね(笑。残りは「みんカラ」で。
お龍と人斬り半次郎 [歴史]
歴史好きにもかかわらず、大河ドラマはほとんど見ないのですが、その恩恵に浴する出来事がありました。
影響力のある大河ドラマは出版業界にとって一大イベント。特に昨年の「龍馬伝」は、坂本龍馬と福山雅治さんという、人気者どうしの取り合わせだったこともあり、いつも以上に関連本を目にしたように思います。
おかげで、普通ならテーマが地味すぎて出版できないような本が書店に並んだり、高価すぎて手が出せなかった本が新書や文庫本として復活することも。今回、特にありがたかったのは、お龍の回想録が新書として出版されたことでした。

お龍さんもかなりの有名人ですから、回想録がとっくに出版されていてしかるべきはずなのに、なぜか今まで単行本すら存在していませんでした。龍馬ブームのおかげてそれが簡単に入手できるようになったのです。しかも新書で。「わが夫 坂本龍馬」(朝日選書)という本がそれです。
戦国時代と並んで歴史ファンの多い幕末ですが、人気の割に日記や回想録といった一次資料の文庫本や新書は少ないように思います。有名どころだと田中光顕の回想録やアーネスト・サトウの日記、龍馬の手紙をまとめたものぐらいでしょうか。
「わが夫 坂本龍馬」は回想をそのまま掲載しているわけではなく、「反魂香」や「千里駒後日譚」といった生前の聞き書きを集め、読者が理解しやすいよう、三人称を一人称にしたりして、整理し直したものです。それでも本人の性格や考え方がストレートに伝わってくる点、回想録と変わりません。
正直言って、お龍の回想は一冊の本としては出版されていなかったとはいえ、さまざまな本で部分的に取り上げられているので、購入時はさほど期待していませんでした。買うのが遅れたのもそのためでした。けれども読み進めてみると、知らなかったエピソードがけっこうあり、目から鱗が落ちる思いでした。
中でも面白かったのが、中村半次郎との出来事です。お龍が寺田屋で「お春」として働いていた時分というから、慶応元年ごろのことでしょう。何と、中村がお龍に関係を迫ったというのです。
この日、仲間の薩摩藩士とともに寺田屋で泥酔した彼は、店の者が誰も酌をしないのに腹を立て、あたりかまわず皿を投げつけるなどして暴れていました。そこで「私が静めて参りましょう」と、彼のいる二階の部屋へ上がって行ったのがお龍。無言で彼のそばに座り、いきなり手酌で5杯、6杯と酒を飲み干すと、
「暴れたってしょうがないじゃありませんか。つまりはあなたの器量を下げるばかりですよ。今夜は私がお相手をいたしますから、充分召し上がってください」
とキツ~イ一言。気を呑まれた中村は言われるままに酒を酌み交わし、ついには酔い潰れてしまいました。
ところがその夜更け。中村は女にしてやられた悔しさからか、はたまた器量良しのお龍を気に入ったのか、お龍の部屋に侵入するなり手を掴んで、
「こら!貴様は今夜は俺の寝室へ来て寝ろ!」
と脅し始めました。
これに対し、気の強いお龍さんは一歩も退きません。龍馬の名を持ち出さずに、
「冗談言っちゃいけませんよ。寺田屋のお春ですよ。宿場女郎とは違いますからねえ。人を見て法を説いてください」
そう見事に啖呵を切ってみせたのでした。
でもその瞬間、彼女が身に着けていた短刀が床にポトリ。それを見た中村は、
「女のくせに短刀なぞを持っておるは怪しいぞ。よくよく取り調べる件があるから、俺といっしょに来い!」
と激昂し、仲間がいる部屋へとお龍を引っ張り込みました。いよいよピンチです。
ところが、結果的にこの短刀が彼女を救うことになります。
二人がそのまま言い合いを続けていると、短刀を見て何か思い出したらしい仲間が慌てて中村の袖を引き、
「ありぁ土州の坂本龍馬の妻だ。僕はこの短刀に見覚えがある。君、とんだことをしたなあ」
と言ったから、さすがの中村も青ざめたことでしょう。翌日お龍をご馳走して、
「どうか昨晩のことは坂本氏には内証にしてください」
と平身低頭で頼み込んだとか。
他愛のないエピソードといってしまえばそれまでですが、もしもこの件が広まれば中村は切腹させられていたかもしれません。そして、西南戦争の行方にも少なからず影響を及ぼしたのではないでしょうか。
それにしても、人斬り半次郎に真っ向から立ち向かうとはお龍さん、強すぎです(^-^;)
*少しだけ表現を変更していますが、基本的な内容はこの通りです。







